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<戦後70年の真実>ダグラス・マッカーサーの嘘と虚栄 「天皇に代わる存在」になるべく演出したが…海外旅行自力旅 [海外情報・ニュース・世界情勢など]

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GHQが入る第一生命館の前は連日大勢の群衆が詰めかけた。マッカーサーはあえて姿を見せることでその権威を高めていった=昭和21年1月8日、東京都千代田区
出典:http://www.sankei.com/

 連合国軍最高司令官(SCAP)、ダグラス・マッカーサー(米陸軍元帥)は占領下の日本で5年8カ月にわたり最高権力者として君臨した。マッカーサーは回顧録にこう記している。

 「私は日本国民に対して事実上無制限の権力を持っていた。歴史上いかなる植民地総督も征服者も総司令官も私ほどの権力を持ったことはない。私の権力は至上だった…」







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ウェッブ裁判長から死刑宣告を受けた東條英機。「わかっておる」と言わんばかりに深くうなずき、ヘッドホンを外して退廷した=昭和23年11月12日
出典:http://www.sankei.com/


 マッカーサーは判で押したような生活を送った。毎朝10時すぎに宿所の赤坂・米大使館から連合国軍総司令部(GHQ)本部が入る日比谷の第一生命館まで通った。午後2時ごろまでオフィスで執務した後、大使館に戻って昼食と昼寝。午後4時すぎにオフィスに再び戻り、午後8時すぎに帰宅した。

 第一生命館前には大勢の日本人が好奇の眼差しで待ち構えていた。マッカーサーは一瞥(いちべつ)もせずにゆっくりとした足取りで玄関に向かった。これが、新たな統治者が誰かを印象づけるための演出だった。マッカーサーの姿を見た日本人は「回れ右」してお堀越しの皇居に一礼して帰っていった。

 月日を経ても群衆の数は一向に減らなかったが、皇居に拝礼する人は次第に減り、半年後にはわずか数人になった。マッカーサーはいつしか「堀端(ほりばた)天皇」と呼ばれるようになった。

 語学将校としてGHQに勤務し、この日本人の変化を興味深く観察していたアル・ゼルバー(95)はこう振り返った。

 「戦前の天皇は人々の前に姿を現すことがなく、日本人にとって遠い存在だったが、マッカーサーは権威者としての役割をうまく演じ、アメリカン・アイドル(偶像)として天皇の権威に置き換わったのだ」

   × × ×

 マッカーサーが、愛機のC54輸送機「バターン号」で神奈川・厚木飛行場に降り立ったのは昭和20(1945)年8月30日の午後2時すぎ。トレードマークのコーンパイプにサングラス姿でタラップを降りたマッカーサーは出迎えの将校にこう語った。

 「メルボルンから東京まで遠い道だったが、どうやらたどり着いたようだな。映画でいう『結末』だよ」

  マッカーサー家はスコットランド貴族の血を引く名家で、父のアーサー・マッカーサーJr.は南北戦争の英雄でフィリピン初代軍政総督だった。マッカーサー は陸軍士官学校を首席で卒業し、1930(昭和5)年に陸軍最年少の50歳で参謀総長に昇進。フィリピン軍事顧問を経て、41(同16)年にマニラ駐屯の 極東陸軍司令官となった。

 この輝かしい軍歴に傷をつけたのが日本軍だった。

 1941(昭和16)年12月8日の日米開戦直後、日本軍はルソン島に猛攻をか けた。マッカーサー率いる米軍は反撃らしい反撃もできずにマニラを捨てバターン半島とコレヒドール島に敗走した。マッカーサーは翌42(同17)年3月 11日、「アイ・シャル・リターン」と言い残して家族や側近とともに魚雷艇で脱出、ミンダナオ島の秘密飛行場からB17でオーストラリアに逃れた。

 部下を見捨てての敗走にすぎないが、米紙は、米軍の勇敢な戦いを連日掲載して「英雄的抵抗」と称賛、マッカーサーに感謝の念を決議する州もあった。

 だが、この「神話」はマッカーサーの創作だった。嘘と誇張にまみれた戦闘報告を自ら執筆し、140回も新聞発表した。若いころに陸軍新聞検閲官として学んだ宣伝のノウハウが役立ったのだ。それだけにフィリピンでの屈辱だけは晴らさねばならなかった。

  44(同19)年7月、サイパンが陥落し、日本の敗戦は決定的となった。第32代大統領のフランクリン・ルーズベルトは、米太平洋艦隊司令長官のチェス ター・ニミッツにマッカーサーの兵力を吸収させ、フィリピンを素通りして台湾、沖縄を攻略する方針だったが、マッカーサーが猛烈な巻き返しに出た。

 44年7月26日、ハワイ・ホノルルの司令部でルーズベルトを待ち受けたマッカーサーは3時間も直談判し、フィリピン攻略への 作戦変更を求めた。大統領選の有力候補と取りざたされるマッカーサーを邪険に扱えば世論の反発が大きい。ルーズベルトは渋々要求をのんだが、面談後に侍医 に「アスピリンを1錠くれ。私にあんな口調でしゃべるやつは会ったことがない」と吐き捨てた。

 こうしてマッカーサーは44年10月、レイテ島に再上陸した。湾内の浅瀬でわざわざ船を下り、波しぶきに打たれながら上陸する姿を報道陣に撮らせ、「先陣を切る闘将」を印象づけた。

 44年12月25日のクリスマスにマッカーサーはレイテ島で勝利宣言した。これも嘘で前線では日本軍と死闘が続いていたが、直前に陸軍元帥昇進が決まったこともあり、ニュース効果を狙った虚偽の宣言だった。実際に掃討作戦が終了したのは4カ月後だった。

  45(同20)年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を受け、ルーズベルトの後を継いだ第33代大統領、ハリー・トルーマンはホワイトハウスで勝利宣言を 行い、マッカーサーを連合国軍最高司令官に任命した。果たしてルーズベルトが存命だったら任命しただろうか。マッカーサーは妻に「老いた兵士への軍神マル スからの最後の贈り物だ」と語り、大いに喜んだという。







× × ×

 昭和20年9月2日、米戦艦ミズーリでの降伏文書調印式。マッカーサーは米海軍提督のマシュー・ペリーが黒船ミシシッピに掲げた星条旗を背に厳かに列席者に語りかけた。

 「われら主要参戦国の代表はここに集まり、平和回復の尊厳なる条約を結ばんとする。もはや不信と悪意と憎悪の念を抱いて会合しているのではない」

  だが、この寛容なる態度は偽りだった。直後に日本政府に対して、軍政による直接占領▽英語の公用語化▽軍票の使用-などを含む「三布告」を部下を通じて通 告した。外相の重光葵が「ポツダム宣言に反する」と直談判したこともあり、公布は差し止めとなったが、マッカーサーによる間接統治は日本側が思っていたよ うな生やさしいものではなかった。

   × × ×

 マッカーサーは、自らが至上の統治者であることを印象づけることに腐心した。その決め手だったのが、昭和20年9月27日の昭和天皇との会談だった。



 昭和天皇は自発的に米大使館を訪問したとされているが、実態は呼びつけたに等しい。2人は通訳を介し1時間ほど会談した。終始穏やかな雰囲気でマッカーサーが説明した占領方針に天皇も同意したとされる。

 だが、マッカーサーの最大の目的は昭和天皇と並んで写真を撮影し、公表することだった。ピンと背筋を伸ばす天皇陛下の横で腰に手をあて、くつろい だ表情を見せるマッカーサー。どちらが統治者なのか、印象づけるには十分すぎる「証拠」だった。日本政府は2人の写真を掲載した新聞を発禁処分としたが、 GHQは即座に処分を覆した。

 翌21(1946)年の元日の新聞各紙で昭和天皇の詔書が発表された。その一節で自らの神格性を否定したことから「人間宣言」と言われる。だが、この詔書の草案もGHQが作成したという指摘もある。

 GHQ兵員情報教育部で米兵向け雑誌編集に携わり、後にUP通信(現UPI)で東京支局長などを務めたラザフォード・ポーツ(93)はこう語った。

 「私もマッカーサーに執務室で会ったことはあるが、話したことはない。彼は常に日本人から尊敬されるように振る舞った。天皇に代わる存在になろうとしていたんだ…」

× × ×

 マッカーサーは、占領統治を成功させ、名声を高めた上での大統領選出馬を考えていたが、その野望は思わぬ形でくじかれた。

 1950(昭和25)年6月25日午前4時、北朝鮮軍(朝鮮人民軍)が朝鮮半島の北緯38度線を一斉に南進した。朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)だった。北朝鮮軍はソ連製T-34戦車240両を含む圧倒的な戦力で瞬く間に韓国軍を釜山まで追い詰めた。

  マッカーサーは国連軍を指揮して9月15日未明に仁川上陸作戦を決行。これが奏功し、38度線を突破して10月には平壌を制圧、中朝国境の鴨緑江近くまで 軍を進めた。すると「義勇軍」を名乗る中国軍(人民解放軍)が参戦し、国連軍は押し戻され、38度線付近で膠着(こうちゃく)状態に陥った。

 そんな中、マッカーサーは原爆使用を検討。51年(同26年)年3月24日には独断で「中国本土攻撃も辞せず」と公言した。これに激怒したトルーマンは4月11日、マッカーサーを解任した。第三次世界大戦となるのを恐れたからだった。

 こうしてマッカーサーの日本統治はあっけなく幕を下ろした。

 それでも日本でのマッカーサー人気は絶大だった。新聞各紙は解任を惜しみ、業績をたたえる記事を続々と掲載した。帰国の日となった4月16日に は、羽田空港の沿道に20万人以上が詰めかけ、星条旗と日の丸を掲げてマッカーサー夫妻との別れを惜しんだ。マッカーサーもこの時ばかりは見送りの人々と 握手を交わし、バターン号に乗り込んだ。

 マッカーサーの占領統治の成否には疑問が残るが、統治者としての演出は超一流であり、間違いなく成功した。その呪縛(じゅばく)は70年を経た今もなお残っている。


◆ ◆ ◆


天皇に代わろうとしたなどとこのマッカーサーなる男は全く演出に長けた詐欺師だとしか思えません。

日本で絶対的な権力を振り回し、東京裁判をめちゃくちゃな論理で戦争犯罪なるもので、日本を悪者に仕立てたこの人間こそ犯罪者だと確信しました。
日本に空襲をしたり、原爆による大量虐殺。全て戦争犯罪以外に他の言葉は当てはまりません。
この連合国軍こそ「侵略戦争」側なのです。だからどうしても日本を犯罪者に仕立てなければいけなかった。その演出しか頭に無かったのでしょうね。
あとは日本の犯罪者側は誰でも当てはまれば良かったと言う事なんでしょう。

全く人の命をなんだと思ってるのか? 人の皮を被った悪魔とはよく言ったものだと思う。

占領した国で英雄気取り。

よく出来た物だと思う。本当に死刑になるべきは「東京大空襲」を続け民間人を殺し「広島」「長崎」に原爆を落として大量虐殺をした人間・アッカーサーではないのだろうか……。

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東京裁判の法廷として使用され、現在は市ヶ谷記念館として移設、復元された大講堂。 昭和21年5月3日、東京裁判初日の写真を、現在の写真に重ね合わせた。(被告席左から3人目が広田弘毅、5人目が東條英機)=東京・市谷
出典:http://www.sankei.com/













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